人形供養学術論文
人形供養学術論文「人と人形の繋がり」
「人と人形の繋がり」はじめに
大本山成田山仙台分院を対象とした卒業論文について、無断掲載、無断複写を禁じます。
第1章 従来の研究に基づく本研究の位置
1.従来の研究の概要まず従来の研究者の人形供養の研究と考察を書いておきたい。 田中宣一は『供養のこころと願掛けのかたち』で、人形を「人の姿をしているので、やはり情の移り方が違う。同じ意味で、他の玩具や観賞品、装飾品とも一線を画す存在だ」としている。無生物だとはわかっていても、人の姿をしているものはとくに情が移り、じっと見つめられているようで不気味でもある。というわけで、現代においても、始末におえなくなった古人形・破損人形の処分には、供養という方法をとる人が少なくないという。人形供養を申し込んだ人の声として、大事にしていた人形なのでただ捨てるわけにはいかないからとか、顔のあるものはゴミとしては出せない、薄汚れたままにしておくのはしのびないなどが、供養を受けようとする理由にあるというが、やはり、ここには人の姿をしたものへの特別な思いがうかがえると田中氏は述べている。
人形の中には、玩具や観賞品として扱うのではなく、祈願のために人の姿をしたものを身近に置く例がある。(註1)これらの像が役目を終えた後、わざわざ霊を抜く手続きをとったり、形を無にする心意の背後には、像に不気味さを覚えたり、霊性を解放しようという気持ちがあるからだと述べている。 池内裕美氏は、「成人のアニミズム的思考:自発喪失者としてのモノの供養の心理」という論文内で、自然物や人工物に対してまるで生きているような感情を抱くという観念を、アニミズムの視点から説明を試みている。 心理学の領域では、幼少期においてアニミズム的思考が生じると考え、アニミズムを“自我と世界の混同に基づく自己中心性から生じた、無生物にも生命や意識を認める現象”と規定している。 こうした観念は子どもにおいて特徴的とされてきたが、その後の研究では成人にもアニミズム的 思考の存在が確認されている。(註2)しかし発達心理学の領域でのアニミズム反応の測定(註3)は「精霊崇拝」や「汎霊説」といった文化人類学的・宗教学的な意味でのアニミズムが考慮されておらず、個人のアニミズム傾向の量的測定にも限界があり、“生きていること”と“意識のあること”を混同している点においても批判されているという。 そこで池内氏は西宮市の門戸厄神東光寺にて、二〇〇七年九月〜十一月に質問紙調査を実施した。この調査を基に成人用アニミズム尺度を作成し、「人形供養の奉納者はそうでない人(非奉納者)に比べてアニミズム的思考をする傾向が強い」という仮説の検証を試み、さらに「日本人はなぜ人形を捨てるのではなく供養するのか」、「人形を供養することによる心理的変化」などの人形供養自体の心理についても探究している。 調査を基に新たに「成人用アニミズム尺度」の作成を試みたところ、下位尺度として「自然物の神格化」「所有者の分身化」「所有者の擬人化」の三つの思考形態が見出された。これら下位尺度は互いに関連しながらも、異なるアニミズムの一側面を構成していると述べている。 また奉納経験の有無、性別、年齢によってアニミズム的思考に差があるか否かを検討したところ、いずれの因子においても非奉納者に比べて奉納者の得点が有意に高くなったことから、仮説「人形供養の奉納者はそうでない人(非奉納者)に比べてアニミズム的思考をする傾向が強い」は支持されたと述べている。それではなぜ同じ神道の流れを受け継ぐ日本人の中でも、アニミズム的な思考をする人とそうでない人、人形供養をする人としない人など、モノの態度に違いが生じるのか、池内氏はアニミズム的思考の強さには、一つは女性のほうが宗教に対して肯定的であるため男女の性差が関係していること、もう一つは年齢による差であると考察している。(註4) 池内氏は人形に対する“可哀そう”という思いや“共に過ごす”という表現は、アニミズム的思考(特に、擬人化)の表れであると述べている。また我々日本人にとって人形は愛玩物であると念や思いが込められた“恐れ”の対象ともなりうるため、供養が終わり「安心した、ホッとした」「気持ちが楽になった」といった安心感を挙げる人が非常に多かったという。そうした中で、供養後もなお惜別や罪悪感などの感情を挙げる人も居り、人形供養のような自発的喪失であっても負の感情を生じる場合のあることを示唆している。昔から日本人はアニミズム的思考が強く、モノを大切に扱う民族であるため、大切なモノを見捨てる正当な理由づけをしてくれたり、処分の際に生じる抵抗感を少しでも緩和してくれたりする絶好の機会として、モノ供養の儀式が伝統的に営まれてきたと考えている。 上記の二名は人形供養の要因をどちらかと言えば人形に超自然的なもの感じているからであると解釈している。これに対し水口千里は「現代供養事情−大須観音人形供養を例として−」において、田中宣一の「道具供養とは、道具の正気抜き・性根抜き、魂抜きのため、すなわち籠る霊を抜き取ってその発動を未然に防ごうとして行われるのだということができる。霊を抜いて単なるモノにしてしまえば、捨てても安心というわけである」と、宮田登の「根底には、古道具類にこもっている精霊が人間に一方的に排除されると、怨霊化するので、それを鎮め慰めようとする心意があり、これは室町時代に出現してきた器具の妖怪に対する思いと通じているのである。」という二人の研究者の見解を引用し、「道具に籠もる霊を鎮静化すること、道具に感謝の念を捧げるすなわちモノを大切にする心が、現代の道具供養の根底にあるという点で、宮田氏と田中氏の見解は一致しており、このような解釈は大方の見方とも相違のないところであろう。しかし、人形供養にはそれだけではない別の要素もある」と述べている。 水口氏が人形供養を知ったきっかけは両親から大須観音人形供養へ人形の供養を頼まれたからだそうだが、両親が人形供養をしようと思ったきっかけは、超自然的なものへの畏怖というよりも「人形は捨てるものではない」という子どものころからの習わしにしたがっていた、道徳心に近い感情であったと考えている。そしてその道徳心は、田中氏が指摘しているように、人間が持つものに霊が籠もるという漠然とした恐れを伴う意識が、ほかの道具類と比較すると、人形に対してはより顕著になるからであり、歴史的に見ても人形はひとがたやひな人形など依代や厄払いに使われてきた。その歴史が、現代の日本人の人形に対する民俗観を形成していると述べている。 しかし、そのような意識は普通は年を重ねるほど強くなる。それにも関わらず、大須観音人形供養には若い女性の姿も多く見られたという。そこで、水口氏は短大生二十四人に対しアンケート調査を行った。人形を捨てることに抵抗を感じた学生は二四人中八人。その中で祟りとか呪われるといった超自然的な現象を理由としたのは二人で、あとは「愛着」「愛情」「かわいがる」といった個人的な感情を理由にしている。中には「少なからず愛情がなくなったら捨てる」という回答があり、人形に対して霊的な存在を感じていない人もいることが分かった。水口氏は「いみじくもアンケートに記された「愛情」「愛着」ということばは、人形供養と大きな関係があるように思われる。(中略)大切な存在だからこそ、そのまま捨てるのはかわいそうという感情が自然に生まれ、それが供養に出すという行為に結びついていくのだろう」と述べている。 また、水口氏は現代社会において人形供養が必要とされる背景には、人形の消耗品化が関係していると述べている。それについて以下に引用する。 もともとヒトガタなど民俗信仰の対象だったもの以外、つまり嗜好品、玩具としての人形は捨てるものではなかった。嗜好品としての人形が出現したのは近世になってからで、それはごく限られた層の人たちだけが所有できるものだった。…(中略)…安価ではあるが、粗製な人形の普及は、代々伝えられるべきものだった人形の価値基準そのものを根底からくつがえし、多くの人形は半永久的な保管の対象から外れることになった。 しかし、人形に対しての精神的な思い入れも残っている。はっきりと霊的な恐れを抱いている人もいるだろう。とはいえ、多くの現代家庭には、古くなった人形を一時的にしろ保管するようなスペースは残されていない。人形は捨ててはいけないものだという民俗観と、保管するスペースがないという現実。…(中略)…人形供養は、そのジレンマを解消するための恰好の手段だと言える。 以上のことから、水口氏は人形供養の成立事情には「人形に対して感じる霊的なものへの漠然とした恐れ」「愛玩したもの、愛着を感じていたものに対して生まれる「かわいそう」という気持ち」という二つの精神的な要因と、「精神的な要因によって捨てがたいものを保管する場所がない住宅事情」「消費者と生産者と寺の利害関係の一致(註5)によって生まれる宗教儀式の商業化」という現実的な要因が一体となっていると述べている[水口千里、一九九八、一六]。 松崎憲三氏は『現代供養論考−ヒト・モノ・動植物の慰霊−』において、平成五年に人形協会が五七〇名に対して行った調査を公表している。参加者を世代別に見ると、祖父母層三一パーセント、父母層四九パーセント、若年層二〇パーセントとなっており、納めた人形は、ぬいぐるみ三一パーセント、日本人形二九パーセント、お土産品一七パーセント、節供人形一六パーセント、その他九パーセントというものだった。また供養に訪れた理由は、古くなったから二六パーセント、大事にしていたから五三パーセント、不要になったから二七パーセント、ゴミと一緒に捨てるのはいやだったから二六パーセントとなっているが、これは全年齢層であり、一〇代から二〇代の若年層に限って見ると、大事にしていたから六四パーセント、ゴミと一緒にするのはイヤだったから三五パーセントとその数値が高くなる。 松崎氏は「本人が親しんでいたものを、自らの思いで持参したということがその主たる理由といえるが、オカルトや占いに関心が強い年代ということも左右しているかもしれない」と考えている。また、「故人の供養のため」「災難があったから」「目の付いているものを粗末にすると目が悪くなるから」等の回答から、「長く生活を共にしてきたことによる愛情や、人という生命体をかたどった人形に対する特異な心情が、人形供養に走らせるのだろう」と述べている。また、松崎氏は論文の最後で以下の通りに述べている。 大和郡山市郡山八幡神社の人形供養は昭和六十年に始められたものだが、「人形には可愛がった人の魂が入っているのでうかつに捨てると障りがあることと、最近は物が粗末にされているので物を大切にしてほしい」という宮司の意向で始められたものという。使った人の魂が憑り移り、うかつに捨てると災いが及ぶという考えは、使い終わった割り箸を折る心意に通底する。しかもこうした考えは、単に宗教者としての宮司の発想に留まらず、一般の人びとも持ち合わせていることは、日本人形協会のアンケートに対する「目のついているものを捨てると目が悪くなる」といった答えなどからもわかる。まず、田中氏や松崎氏は人形を「人の姿をしているので、やはり情の移り方が違う」「人という生命体を型取った」と説明しているが、人形供養に出される人形は人型のものだけではない。事実筆者の供養した人形は全て動物の姿をしたものであったし、ミッキーやクッキーモンスターなどのアニメのキャラクター人形などを供養している人もいる。松崎氏の論文内でも、供養された人形の中で一番多かったのはぬいぐるみであった。筆者は人形に愛着が沸く原因は見た目だけの問題ではないと考えている。
池内氏の論文は人形供養の心理を非常に深くまで考察している。しかし供養を行う人はアニミズム的思考が強く、行わない人は弱い傾向にあるとしているが、本当にそう言い切れるのか疑問に思う。アニミズム的思考が強い人でも、人形に情が移っていなければそのまま捨てる人もいるだろう。「アニミズム的思考」だけで人形供養の要因のすべてを説明できるとは言い難い。 松崎氏の論文は今現在全国で行われている人形供養の一覧や人形協会のアンケート等が載せられており、現在の人形供養の状況が詳細に分かる。しかし、人形供養を依頼する人間の感情についてはあまり深くは考察されていない。 水口氏の人形供養の成立事情として挙げている要因には概ね納得できる。しかし、筆者は後述する「人形への感謝の手紙」を見て、水口氏が挙げている四つの要因以外にもまだ別の理由があるのではないと思い始めた。 まず精神的要因だが、水口氏は「霊的なものへの恐れ」と「愛着」の二つだと述べているが、人形を供養する人の中には形見や貰い物だから簡単に捨てられない等の、一種の道徳的な感情に基づくものもあり、一概に二つに分けきれるとは言えない。現実的要因にしても、人形を仕舞うスペースがあるにも関わらず供養を依頼する人もいるため、恐らく上記の四つの要因だけではまだ説明することが出来ないのではないのかと思う。上記で四つの論文の中で、筆者の考えは水口氏の見解に最も近い。すなわち、人形供養に駆り立てる要因となるものは、漠然とした霊的なものに対する恐れや、アニミズム的な思考だけでなく、そこには人形への愛着があるからという考えだ。しかし、筆者は研究を進めていく内に、人形供養の要因はもっと複雑で、それこそ一言では語ることは出来ない程いくつもの要因が絡み合っているのではないかと思い始めた。
そこで、筆者は研究対象フィールドである成田山仙台分院に展示されている「人形の感謝の手紙」に注目した。この手紙は人形と供養依頼者の関係、そして供養依頼者が抱く人形への想いが詳細に書かれている上に、数も多い。そしてアンケートのように質問形式ではなく自身の思った事を自由に書いているため、供養依頼者の内面へと迫るのに非常に参考になるのではないかと考えた。 本論文では、この「手紙」と、成田山で行われている「ご芯抜き」の儀式をデータとして用い、現代における人形供養の様相を分析していきたいと思う。第2章 現代における人形供養の儀式 大本山成田山仙台分院
1・仙台分院の概要私が今回研究のフィールドとしたのは仙台市青葉区に聳える青葉山に建立されている大本山成田山仙台分院である。
ここをフィールドとして選んだ理由は、ここが宮城県で唯一人形供養を随時行っている寺院だからであり、またこの寺院では供養依頼者からの「人形への感謝の手紙」を展示している。全九六通と非常に数が多く、また成田山仙台分院のホームページからいつでも拝見することが出来る。この手紙は人形供養を行おうとした契機や、人形に対する感情を読み取るのに参考になると思い、ここを選択した。
成田山仙台分院は正式名称成田山経ヶ峰国分寺。宗派は真言宗智山派であり、大本山成田山新勝寺の仙台分院として、昭和五十七年十月二十八日に開山した。開山時に千葉県にある新勝寺の「不動明王」御分身、御分霊を勧請し、不動明王像を本尊としている。境内の展望台にも不動明王が鎮座しており、日本で一番高い位置にある不動明王とも呼ばれている。また本堂には不動明王の他にも日本三体仏の一と言われる能満虚空蔵尊、薬師如来を祀っている。
また戦国時代、伊達政宗氏が仙台に移るまでの四〇七年間、こちらの国分荘を称し三十三村を統治していた「国分氏」の初代より十七代までの城主の霊を境内で安置すると共に、太平洋戦争の戦没者、戦争犠牲の霊を祀って菩堤を弔い、更に世界の平和と繁栄を祈念し建立した。 ここの不動明王は家内安全、厄払いなどの御利益がある。人形への感謝の手紙と同じく、不動明王に対する感謝の手紙も多く展示されており、信徒の信仰は非常に深いことが伺える。
人形供養は修養日以外は随時受け付けており、みかん箱一杯で三千円で供養してもらえるが、供養依頼者の中にはそれとは別にお布施を同封する人も少なくない。 直接寺院まで人形を持ってくる方法と、郵送をする二種類の方法がある。また、当日人形供養に参列する場合は五千円の料金がかかる。
対象とする品はひな人形、五月人形、鯉のぼり、兜鎧など。他にもフランス人形、ビスクドール、ぬいぐるみや手作り人形、動物の剥製も受け付けてもらえる。
またお正月の子供行事に関わる羽子板や独楽なども人形供養の範囲に含まれるという。人形だけではなくお茶の免状、掛け軸、絵画なども人形と共に供養出来る。
ここでは先に述べた護摩祈祷、人形供養の他にも、先祖、水子供養、永代供養、自動車祈祷も行っている。 成田山仙台分院では、人形供養は以前から受付していたが、1年に1回もない程度だったという。 一度平成16年11月10日に宮城テレビOHバンデスに「人形を供養してくれるところ」ということで取り上げられた時は少し増えたが、平成19年〜20年頃から主にインターネット・口コミを通して申し込みが急に増えたという。人形供養の依頼は南は九州、四国、北は北海道まで全国から寄せられる。直接持込が多いのは仙台市、宮城県、山形県、福島県などの近隣で、ほかに宅配による受付は千葉県、神奈川県、東京都、埼玉県などの首都圏が多い。人形供養ではないが祈願供養、お守りといったほかの部門ではマレーシアやヨーロッパ在住の日本人からの申し込みもあったという。これもインターネットを通じて申し込みされたものでこの人形供養もインターネットの普及によるところが大きいのではないかと寺院の方は考えているという。 また、人形供養を依頼する人の年齢層は保育園ぐらいの幼児から高齢者の方まで幅広く、いずれも家族で来ることが多い。また、ひな人形に関しては「置くスペースが無い」という理由でお内裏様とおひな様だけを残して他の人形を供養したりするという。成田山仙台分院では人形のお焚きあげには一般の人は参加できないとのことだったが、ご芯抜きの儀式には立ち会えるとのことで、実際に見せていただいた。 儀式は一日に五回、十時三十分〜十五時三十分の間で一時間おきに行われる。
まず受付で人形供養の依頼書を書く。その後依頼書と共に人形を預けると、その人形は三方に乗せられ、導師が仏堂の中へと運んでいった。運ばれた人形は、仏堂内の不動明王像の前に祈祷用の御札と一緒に並べられた。 儀式が行われる仏堂内は窓が無いためうす暗く、入口から入る外の光と燭台の灯が唯一の明かりである。法事の時のように畳の上に椅子が並べられており、中央の通路には赤い絨毯が敷かれている仏堂内は参列者が座る席と、さらに一段高い所に供養を行う導師が座る席、さらにその奥にもう一段高い場所に不動明王像やその他の仏像が置かれていた。供養を行う場合、参列者、導師、そして尊像の三つが揃って初めて成立するという。
導師が座る段の中央に、「護摩壇」と呼ばれる仏具が置かれる場がある。四方を紐で囲われ結界が張られ、四隅には蓮の花が飾られている。大本山成田山仙台分院では、毎年三月に千体のひな人形を祭壇に飾り感謝の気持ちを込めたひな祭りを執り行っている。 女の子の成長を祈る年中行事の一つであるひな祭りの日に、ひな人形を通し、感謝することで、日ごろ遊んでいる、お人形やおもちゃなどを大切にする気持ちを伝えることを目的としている。ひな人形は九州、四国、北海道など全国から成田山仙台分院へ寄せられたものである。
感謝祭では仙台市内の保育園児100名をひな祭りに無料で招待し、園児が使っている古くなったおもちゃ、ぬいぐるみ、工作品を一緒に祭壇へまつり、園児と共に読経をして一緒に供養を行った。第3章 供養依頼者の書く「人形への感謝の手紙」
1.「手紙」の概要成田山仙台分院では、「人形への感謝の手紙」というのが展示されている。この感謝の手紙は供養依頼者が人形または仙台分院に対する感謝を述べたもので、ここでは供養者から届けられたものをそのまま、個人情報の部分だけ消して展示してある。今現在(1月10日)の時点で公開されている手紙は全部で133通ある。また、この「手紙」は仙台分院のホームページでも展示されている。
現在ホームページで公開されているものにすべて番号を付けて参考資料として付属しておいた。本論文内でも一部を引用しつつ考察をするが、全文を読みたければ参照して欲しい。@自分−自分の人形(1、2、3、5、6、7、9、10、11、13、14、15、16、18、25、27、30、31、33、37、42、49、51、52、54、56、61、65、67、71、73、75、76、80、89、90、93、94、95、96、102、104、105、106、110、112、113、117、122、123、124、127、128)
人形供養において一番多いのが自分の所有物である人形を自分で供養する場合だ。筆者もこれに当てはまる。 多くの場合人形に対して愛着を持っている事が多く、供養の理由も昔遊んでくれた事、見守ってくれた事に対する感謝がほとんどである。 また、所有者自身が自分の人形を供養する場合、「本当はもっと一緒にいたかった」等の惜別の気持ちがあり、少なからず人形に対し未練を持っている人もいる。 A親−子の人形(4、19、20、21、31、32、36、39、45、48、58、63、64、69、70、72、79、85、91、101、107、111、112、116、119、121、126、132、133) 親が子の人形を供養するのは、多くの場合子が成長したため人形が不要になったからである。 特にひな人形は子供が居ない場合は使わないが、行事に使うものであるのと同時に厄払いの人形でもあるため捨てにくいだろう。 また子の人形を親が供養する場合、そこには愛着とは別の感情が見えるように思える。 20.子供が大きくなりぬいぐるみも役目を終わらせてあげようと思いました。 64.子供達が生まれてから、今まで子供達を支えてくれてありがとう。こんなにも大きくなって立派に育ったのもあなたたちのおかげです。ボロボロになるまで子供達のために頑張ってくれたので、これからはゆっくり休んでください。 親が子の人形を供養する場合、愛着から来る惜別の感情はあまり見られない。自分の人形ではないからという理由もあるが、もう人形の役目は終わったのだとはっきり認識しているためでもある。捨てることは出来ないが供養することにためらいは無いように思う。 B子/孫−親/祖父母の人形(23、28、34、35、38、40、53、57、78、84、94、98、114、131) 子供が親の人形を供養する場合、そのほとんどが所有者である親が亡くなり形見であるから捨てられないという理由である。故人の形見である人形を捨てられないのは、自分の所有物ではなく他人の所有物であるために、道徳的に遺物をそのまま捨てるのは忍びないという理由が強いだろう。こういった遺物供養は人形に限らず他のモノでも行われる。 28.亡き義母が大切にしていた人形達です。 不用物として処理するには心が痛く、供養していただければ幸いです。 しかしそれだけでなく、故人が生前愛着を持っていた人形に関しては「あの世で会えるように」という遺族からの願いも伴っている。 23.昨年の暮れ、母が亡くなり、黄泉の国でもお人形さん達と仲良くして頂きたいと思います。 38.義母が欲しくて欲しくて、浅草まで買いに行った物(人形)です。 三年前に亡くなり、待っていると思うのでよろしくお願い致します。 こういった願いを伴うのは他のモノではあまり見られず、人形特有であることが多い。 C自分−家の人形(8、22、41、55、59、68、77、78、81、99、100) 人形が個人の持ち物ではなく、家族全体で共有している場合もある。 > 22.長年にわたり、居間・子供部屋で飾られていたものですから、どうしても、ゴミとして出すことができませんでした。 41. 40年近く住んでいる家の飾りとしての人形等、置物を今までの過ごした年数と共にお礼も含めて、供養お願いしたいと思いました。 この場合、人形は“家の守り神”として認識されているように思える。
一般に、人形を供養する理由は、ゴミとして捨てると怨霊として祟られそうだからとか、厄年にお祓いをするような「厄払い」のために行われると考えられている。
もちろんそういった考えの元に人形を供養する人も居る。しかし、人形に霊的なものを感じ、それを恐れて供養をするのは実はごく一部であり、それは水口氏のアンケート調査の結果からも証明されている。
では、人が人形供養を行う理由とは何なのか。その答えを一つに絞ることは出来ない。何故なら上記で述べた通り、供養される“人形”と、供養を依頼する“人”の関係はそれぞれ全く違うからである。関係が違えば供養の理由も変わってくる。そこで、「手紙」から読み取れる供養の理由をすべて以下に書き出してみた。
(中略)出でたまふけしき、ところせきを、人びと端に出でて見たてまつれば、姫君も立ち出でて見たてまつりたまひて、ひなのなかの源氏の君つくろひ立てて、内裏に参らせなどしたまふ。「今年だにすこし大人びさせたまへ。十にあまりぬる人は、ひな遊びは忌みはべるものを。かく御夫などまうけたてまつりたまひては、あるべかしうしめやかにてこそ、見えたてまつらせたまはめ。御髪参るほどをだに、もの憂くせさせたまふ」など、少納言聞こゆ。
(訳: 姫君(若紫)は、いつの間にか、もう早速にお人形を並べ立てて忙しそうにしていらっしゃるが、三尺の対の御厨子にさまざまな道具を飾り並べ、また小さな御殿をいくつもこしらえてさしあげられたのを、部屋いっぱいに広げて遊んでいらっしゃる。 (中略)(源氏が)お出ましになるご様子の、あたり狭しとばかりの御威勢を、女房達が端に出て拝見するので、姫君もいっしょに立ち出でて拝見なさって、人形の中の源氏の君を着飾らせて参内させなどしていらっしゃる。「せめて今年からでも、すこし大人らしくなさいませ。十歳を越した人はもうお人形遊びなどはいけないと申しますのに。こうして、婿君などをお持ち申されたのですから、奥方らしく落ち付いてお相手なさいませ。今は御髪を直してさしあげることさえおいやがりになるのですもの」などと少納言が申し上げる。)[渡邊靜夫、一九九四、] ここでは若紫は人形を源氏の君に見立てて遊んでいる。このように人形を生あるものとして見立てることは古くから行われていたことである。
また、子供は人形に名前を付ける事が多い。筆者もぬいぐるみに全て名前を付けていたし、手紙を見ても手紙に人形の名前を書いている手紙が一〇通以上見受けられる。これは他の道具や玩具には見られない特徴であり、これこそが人形供養が他の道具供養と一線を画す要因なのではないかと思う。
また、人形の役目は玩具として遊び相手になるだけではない。飾ることに意義がある人形も存在する。それはひな人形や五月人形のように行事にまつわるような物もあれば、部屋のインテリアとして飾られる物もある。人形への手紙の中には、人形と遊んだわけではないけれど、「見守ってくれている」と感じている人が多い。 15.ずっと私の部屋で帰りを待っていてくれてありがとう。 … 私はあまり人形やぬいぐるみで遊ぶ子ではないけれど、一人っ子なのにあまりさみしがりでないのは、貴方達がいてくれたからかもしれません。 この供養依頼者は、「人形やぬいぐるみで遊ぶ子ではない」と述べている。遊び相手ではなかったが、心を癒すものとして、人形は大切な存在であったのだろう。 22.長年にわたり、居間・子供部屋で飾られていたものですから、どうしても、ゴミとして出すことができませんでした。 41.40年近く住んでいる家の飾りとしての人形等、置物を今までの過ごした年数と共にお礼も含めて、供養をお願いしたいと思いました。 この二つの事例では人形ははっきりと「家の飾り」と書かれている。だが、ただの飾りであったとしても「ゴミとして出せない」「お礼を含めて」と書いているということは、人形が「見守ってくれていた」と感じているのだろう。 池内氏の実施したアンケートの中でも、「人形は所有者にとってどのような存在であったか」という問いに対し「お守り、見守ってくれる存在」と答えた者が全体の十九・九%を占めている。ままごとに使われる人形が「遊び相手」という役割を与えられているとしたら、そういった人形達は供養依頼者にとって「お守り」のような存在であったのではないかと考えられる。
A贖罪(9、31、39、42、49、56、61、67、76、78、80、89、92、95、96、106、112、127)
「手紙」を見ていると、度々人形に対して「申し訳ない」と罪の意識を感じている節がある。 31.3体のうち大きい方の1体は私が小学生の頃遊んで手術の真似事などして傷つけてしまいました。今思うと可愛そうな事をしたなと反省しています。 80.昔ラクガキしてごめんなさい。いつもあそんでくれてありがとう。あと服ぬがしてごめんなさい。
ごめんなさいが多いけれど
ありがとうも多いです。 モノを傷つけたり汚したりする事に罪悪感を抱く人はあまりいない。しかし人形に限っては、こういった事に対して罪の意識を感じている事が読み取れる。これは道具を「擬人化」しているのだと思われる。 49.長年、暗い物置に入れたままでした。
そのような所に置いているより、供養して頂いた方が良いと思い送ることにしました。 61.長い間、箱の中に眠らせたままでごめんね。 一度私の夢に出てきて箱を開けてとも言ったことがありました。
人形本来の沢山の方に愛でてもらう・・・出来なくてすみません。
78.今まで飾ってあげる事もせずに暗い奥の部屋で寂しかったでしょうね。ごめんなさい。 104.人形たちも、家の隅でほこりを被っているよりきちんと御供養していただいた方が喜ぶかと存じます。 これらのように「飾らない事に対して申し訳なく思う」事例は珍しいものではない。だが、これは人形に対する特有の感情なのではないかと思う。これらの供養依頼者の中には決して人形を置く場所が無い訳ではない人もいる。それにも関わらず人形を供養に出すのは、人形を奥深くに眠らせておくぐらいなら、供養してしまったほうが人形にとっても幸せだと考えているからである。
B道徳/倫理(17、28、96、110、133)
貰い物である人形は特に愛着はなくても捨てにくい。それは貰い物をそうそう気軽に捨ててはいけないという道徳感が働いているからなのだと思う。また、贈り物である人形には送り主の“想い”も籠っているため、それを無碍にできないという思いもあるだろう。 110,遠く離れて行った友人にいただいたぬいぐるみです。新しい生活を始めるにあたり、どうしても手放さなければならなくなりました。 よろしくお願いします。 133.以前、友人からいただいた人形です。
友人の義姉さんが作ったと聞きました。何となく捨てられません。 また、顔の形をしたものは捨てられないと言って供養を依頼する人もいる。 96.マスコットや携帯ストラップ等顔のあるものはどうしても捨てることができずにいたのですが、こちらで供養して下さることを知り安心してお人形を送り出すことができます。 これは松崎氏の論文内にもある「目の付いているものを粗末にすると目が悪くなるから」という理由と似ている。松崎氏は「使った人の魂が憑り移り、うかつに捨てると災いが及ぶ」から供養するのだと説明しているが、筆者はどちらかと言えば人間の形をしたものを簡単に捨ててはいけないという道徳心が働いているのではないかと思う。
C厄払い/浄化(8、71、79、122、133)
人形に抱く感情は愛着だけではない。時に人形は人間に恐怖感を抱かせることもある。そして供養者の中には、そういった何かしら霊的なものを感じ、供養を依頼する人もいる。その中のいくつかを分析しようと思う。 8.今年の三月に十日ほど飾りました。毎日お水を供えるところ、三日くらい水が異常に減り不思議でした。それから娘(高3)がのどが乾き、弟のお茶に手を出してしまうほどになり、気になっております。人形にも心があり、何かを伝えたいのでは・・・等色々考えて しまいます。成仏してもらうことと、お疲れ様という気持ちを込めて供養の方をよろしくおねがいします。 この事例では、供養依頼者は人形に供えた水が減り、娘ののどが異常に渇くのは人形に得体の知れない超自然的な力が働いているからだと考えている。また、「成仏」という言葉を使っていることから、供養を行うことによって人形に宿る「魂」の解放をしようとしているのではないかという事が伺える。人形に対して「愛着」よりも、「霊的なものへの恐れ」の方を強く感じている一例である。 71.この人形は42年前に私が生まれたときに叔母がプレゼントしてくれたものだと聞いております。何回もの引越しを共にしてきたのですが、遊んだり、可愛がってあげた記憶が私にはありません。 母がずっと取っておいた人形です。 最近になって、我が家の犬がこの人形を見つけては吠え、タンスやクローゼットの奥の方にしまっておいても必ず見つけ出し、ものすごい剣幕で吠えてしまいます。このまま表に出すことなくタンスの奥の方に入れておくのもかわいそうですし、母と相談しきちんと供養していただいて手放すことに決めた次第です。 ここでは供養者は「遊んだり、可愛がってあげた記憶が無い」とはっきり言っている。つまりこの場合供養の要因に「愛着」は全く関係していない。供養依頼者は飼い犬が人形に対して吠えるのは犬が人形に対し何か霊的なオーラを感じているからではないかと考えているのだろう。 79.五月人形は初めての男の子でもあり、どうか強い男の子として力強く生きてもらいたいと願いを込めての物であったのですが、気持ちが優しすぎて何時も人に流されてしまっています。 私の育て方がいけなかった事が最も大きいと思っていますが、過去に端午の節句の飾り付けの時、縁起でもなく過って兜を落としてひび割れを作ってしまった事も、あの子に傷付けた人生を送らせているのではないかと言う思いがずーっとありましたので、供養をお願い致しました。 供養者は人形を壊してしまったことで人形が怒り、そのせいで息子が不幸な人生を送っているのだと考えている。人形はあくまでモノなのでもちろん怒ることはないのだが、元来人形はヒトガタとして神事に使われたものであり、さらにここで供養された人形は厄払いの行事に使う五月人形であるため、「バチがあたる」という心理が余計に強く働いたのだと思われる。 これらの現象は科学的にはなんの根拠も無い話なのだが、供養者は人形に対して明らかに霊的なものへの畏怖を感じている。この場合の供養はどちらかと言えば「厄払い」に近いのではないかと思う。D願掛け(14、15、79、120、121、126、132)
他の道具供養、特に針供養、筆供養は供養と共に技術の上達を願う願掛けも行われる事が多い。荏柄天神社ではお焚きあげの炎の中に参詣者が文具を投じ、上達を願ったり、「長々とありがとう」と感謝の言葉をかけながら水屋で筆を清めたり、「健康で文章が書き続けられますように」と願掛けをする人もいたという。
奈良県大和郡山市西方寺の鉛筆供養では近所の幼稚園や小学校の児童らが、一年の間に使った鉛筆を持ち寄ってくる。これらの鉛筆を三宝にのせて焼香し、住職が読経する。子供たちはそれに合わせて「字が上手くなりますように」「学校の成績がよくなりますように」などと願いを込めて手を合わすという。[松崎憲三、二〇〇四、四八〜五十]
筆供養ではこういった願掛けを第二の目的として行われる事例は多いが、人形供養は人形そのものの供養が目的であり、また人形自体が遊びの道具であるため、技術上達のような願掛けは行われないように思える。
しかし、人形供養の依頼者の中には人形供養に願掛けを行っている人も少なからず存在する。 126.今日まで娘の成長を見守ってくださったことに感謝いたします。 ・・・どうかこれからも、娘の未来が明るく希望にみちたものであることを祈ります。 これは娘の人形を親が供養する際に、娘の将来の幸福を願掛けしている例である。 79.どうか、人形焚き上げの炎と共に、これ迄の過去と決別して、 新たな人生を歩み始めてもらいたいと遠くから祈っております。 これは上に挙げた兜を割ってしまった五月人形の事例の一文だが、供養を行うことで将来の幸福を願掛けしている。 願掛けの内容は他の筆供養などに見られる技術上達や文化の発展はほとんど見られず、どちらかと言えば自分、もしくは子の人生の幸福を願う場合が多い。
人形供養学術論文「人と人形の繋がり」まとめ
まとめそして、人形供養の背後に見える人と人とのつながりは“家族”であることが多い。自分のものではない人形を供養する場合、家族以外の人形を供養に出す事例はほとんど見られず、家族以外のものであったとしても密接な関係を持つ人のものである事に違いは無い。たとえ子の所有物であったとしても、遊び相手となってくれた人形に対し親は感謝の意を述べ労い供養しており、親の所有物であったなら故人の所に行けるようにと共に供養している。それは人形というものが、家族の一員として日常生活において密接に関わっているからではないかと思う。
供養される人形は古いものが多いというが、それは古い人形ほど「思い出」が詰まっているからだろう。しばしば「思い出のつまった人形だから捨てられない」といった内容が手紙に記載されているが、人形は人との繋がりが強い分記憶の器となり易いのだろう。そして人形に残る記憶は自分だけのものではない。子の思い出、親の思い出、人形をくれた人の思い出など、そこには“人と人”の関わりが前提となって来る。人形は“人と人”の記憶の媒介になっていると言えよう。また、記憶だけではなく、人形はC道徳/倫理で述べたように、送り主の思いの媒介ともなっていることがうかがえる。 一般的に、人形供養に対して持たれているイメージは呪われないための厄払いといった“御祓い”などの霊的な恐れなどであった。しかし実際に「手紙」を見てみると、霊的な恐れよりも、むしろ人形に感謝し愛着を感じている人の方が圧倒的に多い。そういった意味で、供養依頼者にとっては、供養は“御祓い”ではなく“葬儀”と言えるのではないかと思う。 また供養の儀式「ご芯抜き」は重厚で“特殊”な雰囲気を醸し出し、いかにも宗教儀式らしい非日常的な空間であった。しかしそれとは裏腹に、人形供養の要因は誰もが理解し同意出来る“普遍的”な考えである事が分かる。以上のことから、人形供養は決して信仰心の厚い人や一部のフェティシズムな感性を持つ人のためだけのものでは無く、ごく普通の一般の家庭にこそ需要が求められていると言えよう。 註- 熊本県河内町の大黒神は、古くなったものを集落内の荒神を祀る一定の場所に厳重に納めている。新潟県東蒲原群のショウキサマは、古いものを完全に解体したあと、定められた聖地で腐らせるか焼却する例が少なくない。
- こうした成人にみられるアニミズム反応には「比喩的アニミズム」と呼ばれるものが多く、「実際に生を認めているわけではないが、無生物に対して神性や生命の存在を感じる現象」として再規定されている。
- 典型的なアニミズム反応の測定は、生物(馬・カエル・植物・など)と無生物(海・時計・本など)の対象を例示し、生きているか否かの判断と、その理由を求めるという方法に基づいている。
- 若い人は宗教への関心は薄いが、超能力や超常現象などのオカルトへの関心が強く、また「たまごっち」などのようにバーチャルで疑似的な世界を作り出すインターネット、コンピュータの発達によりスピリチュアルな事象を受容できる心的な準備が整っているのではないかと池内氏は考察している。
- 業者の利とは人形の安価化により古い人形の代わりに新しい人形を売りたいということ、寺の利は拝観者を増やしたい事。
- 田中宣一 二〇〇六 『供養のこころと願掛けのかたち』 小学館
- 池内裕美 二〇一〇 「成人のアニミズム的思考:自発喪失者としてのモノの供養の心理」 『社会心理学研究』 日本社会心理学会
- 水口千里 一九九八 「現代供養事情−大須観音人形供養を例として−」 『近畿民具学会年報』 近畿民具学会
- 松崎憲三 二〇〇四 『現代供養論考−ヒト・モノ・動植物の慰霊−』 慶友社
- 柳田國男 一九四二 『こども風土記』 朝日新聞社
- 斎藤 良輔 一九九七 『日本人形玩具辞典 東京堂
- 渡邊靜夫 一九九四 『源氏物語@』 小学館
- 日本風俗史学会 一九七九 『日本風俗史事典』 弘文堂>
- 大塚民俗学会 一九七二 『日本民俗事典』 弘文堂
人形供養 成田山のご縁
成田山のご縁こちらは、宮城県内の大学生が、卒業論文として人形供養を行う申込者の心理的、歴史的、民俗学的な立場より踏まえた論文を書かれるということで、少しではありますが協力させていただきました。また、その後、完成し拝見させていただく機会があり、論文が大変素晴らしいものでありましたので、是非、成田山の人形供養で紹介させていただければ・・・と勝手な希望を申し上げましたら、御本人様より御快諾いただきました。
「ワタシ(私)の持っていた人形はタダのモノ(物)である。しかし、どうして、そのタダのモノ(物)を大切にする、供養したいまでの気持ちになるのか・・・」御自身の体験や経験を踏まえ、その興味を精査し、「繋がり」というキーワードから論文に込めてあります。私達が人形供養する動機、気持ちを的確に表し、それを納得できる形で論文にまとめてあります。私達がぬいぐるみ供養や人形供養に対する「なんとなく・・・」「そのまま捨てられないから・・・」といった私達が持つ温かい気持ちを、この論文によって明確に、そして、それ以上のことを明瞭に示してくれる道しるべになるのではないかと感じます。 また、人形供養の申込みをしようと考えていらっしゃる方と重なる部分も多いのではないかと思います。祭祀者(成田山)、供養者(人形供養申込者)とは別な、学術的な視点から人形供養やぬいぐるみに対する考察、そして、その気持ちや人形と人との繋がりについて民俗学的な立場から興味がある方は拝読下さい。 そして、御自身の経験はもちろんですが、皆様から寄せられた、成田山の人形供養の感謝の手紙もヒントとなり、このテーマにしようと考えられたそうです。そういった意味では、成田山でも一部協力させていただきましたが、人形供養をお申込みいただいた皆様全員が多大な御協力者であると思います。おかげで、このような立派な思ってもみなかったような形で拝見することができ、感慨深い気持ちです。人形供養でどのような形で論文にするのか、果たして人形供養で論文が出来上がるのか、拝見させていただくまで不思議な気持ちでおりましたが、完成した論文を拝見いたし納得しました。こちらの論文を完成させるのに、一年以上の年月がかかっているそうです。 取材時には、大きなカメラを抱えて、一生懸命に質問され、熱心に話を聞かれて居られたのが大変印象的でした。後日「・・・先日はお忙しい中時間を割いていただいて、取材に応じて下さりありがとうございました。おかげ様で、無事に完成する事ができました。本来であればお礼をするのはこちらにも関わらず・・・」といった丁寧なお手紙までいただき恐縮いたしました。人形供養を通して、いままでも様々御縁を結ばさせていただきましたが、今回のような御縁もあるものだなと深く感謝申し上げております。 なお、今回、御本人様の御了解を得て御好意により掲載させていただいております。 そのため、「『"人と人の繋がり"を背景とした"人と人形の繋がり"ついて ―大本山成田山仙台分院の人形供養を事例に―』(以下、「本件」とする。)」に関わる一切の無断転載・無断引用については難くお断りさせていただきます。また、本件ならびに本件著作者における個人情報等に関わる部分は予め変更・置き換え・削除の措置を行い伏せさせていただき、本件の著作者個人的な問合わせに関しても一切お答え致しかねますので御遠慮いただきますよう、あらかじめご了承下さい。 合掌住所 :〒980–0845 宮城県仙台市青葉区荒巻字青葉33-2
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